ぼくたちはいつから勉強が苦痛になったのだろう
「勉強」いう単語に良いイメージだけを持っている人は少ないでしょう。
学生の頃、試験前に眠気と戦いながら勉強した。
小学校の頃、親に叱られながら勉強させられた。
資格をとるために勉強しなくてはならない。
ぼくたちはいつから勉強することが苦痛になったのでしょうか。
幼いころは誰もが学ぶことが大好きだったはずです。
言葉を話すこと、動物や虫の名前を覚えること、本を読んでもらうこと、歌を覚えること、すべてを飽きずに何度も繰り返しやっていたはずです。
どうしてぼくたちは勉強することが苦痛になってしまったのでしょうか。
その原因が幼少期の環境や学校教育にあることは想像に難くありません。
小学校に入る前は、これからたくさんのことを勉強できると胸を弾ませている子どもが、中学校の入学式で、これからやらなくてはならない難しい勉強にため息をついていたりします。
この期間、子どもが勉強を嫌いになってしまうような、なにかが起こっているのです。
学校教育によって、勉強する目的が変化する
小学校などの集団生活の場では、これまで、1人で言葉や歌を覚えていたときには無縁だった、同じことを勉強する仲間が、学校という集団生活の場では当然存在します。
複数の子どもが同じことを勉強した時、当然その習熟度、理解度にはバラつきが生じます。
また、テストによって、これまで意識をしていなかった学んだことの習熟度、理解度チェックが行われ、良い結果を残した子どもは自信がつき、悪い結果だった子は落ち込みます。
そして、最も大きな変化は、勉強ができる子、できない子に関わらず、勉強をする目的が、学ぶことそのものを楽しむことから、学ぶことによって得られる結果にシフトしていきます。
勉強をすることでなにかしらの結果を得る → なにかを得るために勉強をする。
一見、当然のように聞こえますが、生まれた時からぼくたちが続けてきた「学ぶ」という行動が、大きく変化した瞬間です。
勉強する理由
今、大人になった私たちは、なにかを勉強する時に、「なんのためにそれを勉強するか?」という勉強する理由を無意識に考えています。そして、なにも得られないのであれば、その勉強はする必要がない、とも考えています。
しかし、集団生活の中での勉強を始める前は、そもそも「なんのために勉強するか?」なんて考えていなかったはずです。
数学は○○の役に立つから、歴史を勉強しておくと□□の時に有利だから、英会話は今の世の中必要だから。
幼いころはそんなこと考えていなかったはずです。なにかの目的のために動物の名前や歌を覚えたわけではないはずです。ただ、学ぶことそのものが楽しいことでした。
大人になった今、できる勉強
「学び」は本来とても楽しいものです。
しかし、なにかの目的のために「学ぼう」とすると、突然勉強が苦痛になる瞬間があります。
もちろん、目的達成のためになにかを習得しようとする行為は、否定できるものではありません。
しかし、すべての勉強をなにかの結果のために行う必要がない、ということも事実です。
自分にはとてもやりたいことがある、しかし、それをやることによってなにも得をしないし、第一仕事には何も関係がない。もちろんお金にもならない。
このようなことを勉強するために、人生の時間は用意されているのではないかな、と考えるこの頃です。